言葉辞典出張版版

ネットに散らばっている言葉を集めている。それだけだ。

「朝に感謝しましょう」とファソンはいった。
「朝に、感謝?」とぼくはいった。
「朝が来たことに感謝するの」
「どうやって?」
ファソンは、窓を開けた。それから、こういった。
「まず、朝が永久に来ないと考えるの。いつまでも夜は明けず、暗いままで暮らすことを考えるの。お祖父さんやお祖母さんの頃には、朝が来て、それがどんなに楽しかったか、という話を聞いて育った人たちがたくさんいたと考えるの。それがどんなに楽しいか、想像してみるだけの人たちのことを考えるのよ。その人たちは、いつか朝が来ると信じているの。それがどんなに素晴らしいことか考えて生きていくの。でも、朝はいつまでたってもやって来ない。そのうち、朝なんてものは存在しない、とみんなは思い出すの。そんな愚かなことを考えるのは止めようと、みんな思うようになるのね。何百年も、何千年もたって、もう朝なんてもののことを覚えている人もいなくなった頃、それでも、何人か、『伝説』の朝というものを信じている人たちがいるの。そのうちのひとりが捕まるのよ。『朝』なんていう危険思想をふりまいたという理由でね。そのひとりは、処刑されることになるわ。処刑の前の晩、独房の窓の鉄格子から外を見るの。真っ暗なの。星も月もない。空にひとかけらの光も見えないの。時間が来て、刑務官がやって来る。『さあ、時間だ。おまえを吊してやる。おまえは、朝とかなんとか、わけのわからないことをいっているらしいな。なんでも、朝というものが来ると、空に光が満ちるというじゃないか。おまえは手品師か? それとも、神様にでもなったつもりなのか? 馬鹿馬鹿しい』といって、そのひとりに手錠をはめ、刑場に連れていくの。そのひとりは、手を後ろで縛られ、目隠しされ、首に縄をかけられる。刑務官が『なにか、いい残すことはないか? 詐欺師どの』といった時、周りがざわめき始めるの。『電気をつけたのか?』とか『なんか、変だぞ』と囁く声が聞こえてくる。気がつくと、刑場の上空が、青く霞みはじめているの。やがて、東の方がオレンジに近い色になってくると、刑務官たちは、恐怖のあまり逃げだし、そのひとりだけが取り残されるの。なにかが起こったことが、そのひとりにもわかったわ。でも、なにが起こったんだろう。後ろ手のまま、そのひとりは、頭を振ってみる。しばらくして、目隠しが外れたの。朝が来ていた。恐ろしいほど大量の光が、空の一点から、放射して、世界の隅々に向かって流れているのが見えた。そのひとりは、後ろ手のまま、朝を見ていたの。そして、こんな時に、なんといえばいいのか、聞いたことがあると思ったの。そして、懸命に思い出そうとするの。そして、そのひとりは叫ぶの。『おはよう!』って」
「そういうことを考えてみるんだね」
「そう」
ぼくは、目を瞑り、ファソンの言ったことを想像してみた。それから、おもむろに目を開き、朝を見た。
「ファソン」
「なに?」
「朝が来るというのは、素晴らしいね」
「ええ」

高橋源一郎「いつかソウル・トレインに乗る日まで」