言葉辞典出張版版

ネットに散らばっている言葉を集めている。それだけだ。

昨日風呂に入っている時2つの何かを思いついて、あとで書き付けようと思っていたが一つは何か忘れてしまった。
もう一つは光の速さと月のことで、それは憶えている。
このことを考えるのはきっと何度目かだから、憶えているのだろう。

光の速さというのは、とても早く、秒速30万キロだそうだ。
光が月に届くまでにかかる時間は大体1.5秒、今調べたところによるとだ。
物理学の世界では未だに、この世界に光より速いものはない、という説が一定の真理であり続けているようだ。

しかしもし誰かが、月の話をするとか、或いはただ「月」という言葉を口にしたとき、それを話した人、及びそれを聞いた人の中に、月の姿が思い浮かぶまでには、恐らく1.5秒もかからないだろう。
もちろん月というのを見たことがあって、月という言葉が何を意味しているか知っていなければならないが、
それはもう、時間として感覚できない速さで、光の1.5秒という記録を余裕で超える。
このように、光より早いものはぼくたちの身近にある。
それは「思い」であり、「憶えている」ということだ。
これを科学技術として利用すれば、一瞬どころか、時間の経過ゼロで我々は月へ行ける。月だけではなく、憶えている限りどこへでもだ。

ああ、解ってる、今君はこう思っただろう
「心に思い浮かべることと、実際に行くのは違う」そう、その通りだ。
しかし、では、何が違うだろう。月を思い出すことと、実際に歩いて、とか走って、とか動いて、移動する、ということが。

そう、動く、走る、歩く、移動する。それは身体のことだ。いくら心に大きく月を描いても、目の前はパソコンのモニターだし、いくら眼を閉じても、この部屋のエアコンは、ぼくの身体に心地よく無機質な風を当て続けるし、癒しの持続音を吐き出し続ける。
この椅子はぼくの尻を下からすごい力で圧迫しつづけているし、音も聞こえる、特に人の話し声だ。
人は、人の話し声に相当する周波数を最もよく聞き取る。
これらのことが、ぼくが今、月にいるのではなく、この時間、ある部屋の、机に座り、キーボードを叩いている、と信じさせ、それ以外の、そうでないかもしれない状態について考えるのを止めさせる。これらはとても強い力で、その障害であり続ける。

「思い」というのはいつもあっちへこっちへと、忙しく飛び回っているものだ。
ついさっき月のことをチラチラッと考えたと思えば、次の瞬間には、どこかから漂う煮詰まったコーヒーの匂いが気に入らない。
毎日酷い暑さだというのに、熱く煮詰まったコーヒーなど一体誰が作ったのだろう、耳鼻科に行ったみーちゃんは今頃どんな顔をしてるだろうか。
これらは皆、傾注、細分化されたアテンションの連続だ。
人間というのは一瞬の内に、あらゆることにわずかずつ注意を向けたり、そうしなかったりを繰り返している。
実際、心の中はいつもバラバラだ。
そんなことはない、私の心はバラバラなどではない、いつも心に一つ、信じるものを持っている、なんていう人もいるかも知れない。
そんなの、それはただ、そのバラバラの具合に気付いてないだけだろう。
身体は物の領域で全てを規定して、一つの纏まりであるかのように振舞う。
言葉だって、物だ。言葉にすれば、声に出せば、その場では、物の領域に転移するから、
言葉は心の表れとして、一つの纏まりになったかのように振舞う、というだけなのです。

だから、心はさっき言ったような「尻の下を突き上げるように圧迫する椅子の存在」に勝つことができない。
この椅子は、とても強い。一瞬も途切れることなくぼくの尻を圧迫する。どんな感覚であるか、擬音語や、擬態語で表現しようにも、途切れない皮膚感覚というのは、音にするのが難しい。音は始まりと減退、終わりがなければ、なかなかそうとは認められないからだ。
あのエアコンも、まだまだとてつもない強情を吐き出し続けている。
だから、仮に、人間が、周りにある色んなことを少しずつ、つまみ食いのように感覚するのを止め、ずっと、例えば何時間も、もしかしたら何年も、月のことだけを、月を心に浮かべる、ということだけを続けられたら、この愚鈍な身体の方もいつかそこに少しずつ馴染んで、最後には身体ごと月まで移動できるかもしれない。

よし、いっちょやってみようか。

まず、目を閉じよう。
目を閉じたからと言って、光が全て消える訳じゃない。
知ってるだろう。瞼の裏側では、カラフルで細やかな、幾何学模様がいつも踊ってる。
ぼくの場合、風邪のひき始め、まだ症状が出ていない状態で眠りにつくと、瞼の向こうから青い巨大な光が、いくつも飛んでくる。
それを見て、ぼくは自分が風邪を引いていることにいつも気がつくのだ。
まあ、いい。
これも、月へ行くための一つの障害になる。

光が消えた。
本当に、全ての光が消えてしまった。



尻を圧迫する椅子が、消えた。

意外に早かったな。
「尻を圧迫する椅子」というどこか重苦しいフレーズがそう思わせたのだろうが、意外にもそうではなかったようだ。

あんなに強情だったエアコンも消えてしまった。
もう、肌に当たる心地よく無機的な風を感じない。
だが、まだエアコンの口から吐き出される風の、別の様態を感じる、そう、音だ。
まだぼくが、月ではない場所にいることを、この音が同定する。

音が消えた。
人の声も、消えた。
音は消えても、人の声は最後まで残るとか、ロマンチックなことを考えていたが、身体とは薄情なものだ。
他の音と一緒に、人の声も簡単に消えてしまった。

私は月にいた。
気がつくと、私は月の地平線から3分の一ほど覗いている地球の姿と、その回り全てに広がる、真っ黒い空間を眺めている。
ここは私が、図鑑や、テレビや、インターネットで見た、月そのものだ。
足元を見れば、大昔のアメリカ人がつけたであろう、大きな靴の跡を見つけることもできた。
それは、誰も見たことが無いというあの、月の裏側の方へ続いている。
そっちへ行ってみようと思う。誰も見たことのない月の裏側をこの目で見てみたい。
そうだ、身体があれば、見たことのない場所へも、歩いていけるのだ。
けれど、私は今や、身体ごと月にいるのだ。ご存知ですか。月はとても寒い。
寒いし、子どもの頃図鑑で読んだ限り、月の大気は地球のそれとは組成がまるで違う。
いや空気というようなものは、殆どないのだったか。或いは全然か、記憶が曖昧だが、調べることもできない。
この場所は月であり、インターネットはここにはないからだ。
地球にいる時のように、空気は動かない、だから音は、地球にいる時のようには聞こえないが、より注意深くなれば、音のような感覚があることは、ある。
これはもしかすると音子(フォノン)が私の身体を構成する粒子にぶつかって、弾けているのを、直接音のように知覚しているのかも知れない。
ふむ、なかなか興味深い。
まあ、そんなことより何より、素朴に空気が無いということは、私はこの身体を地球にいる時のように扱うことが出来ないのだから、
だから私は、月に着いてから割とすぐに死んでしまった。
身体はいつしか粉々に砕け散り、月の裏側を見ることはついにできなかった。

そして気がつくと、そこはまだ昨日で、ぼくは風呂場でだらしなく伸びた髪の毛を洗っている最中だった。

というイマイチな結末を考えながら、おれは昼飯のグレープフルーツを4つ切りにしたものをかじり、
パソコンの前に座り、モニターを眺めている。
酸っぱい。